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訃告 本島等さんの話(元長崎市長)
「本音の男で面白かった」末永 公正 |
●市長室の扉なしで人気。
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本島さんがこの世を去った―と報道が伝えた。もう1年は会っていなかった。私より10年先輩であった。
県議会議員をしていて、「長崎市の滑石に家を作ったよ!!」―と言っていた頃、自民県連の幹事長になった時、「俺、長崎市長選に出るよ!!」と言い出した。私も長崎市内(桜町)に事務所があり、「よし、やれよ」と言った。「さあ、どうなるやら―」と言ったのは、本島と同年の当時長崎県議会議長をしていた松田九郎であった。
市長選の対手は長崎市の名門財界出身の諸谷市長であった。大方の予想は諸谷強し、であった。しかし、経済界は当時二つに分かれていた。新興の勢力と古くからの名門の対立であった。
本島には資金面で長崎熱学梶Aそれにたちばな商事(風俗店)を経営している義弟がいた。その上、長年の愛人でもあった「米津」のママがいた。米津は今の居酒屋みたいなものだが、市内に4店舗出して盛況の店だった。ママの息子で、長崎青年会議所の理事長まで本島のバックで務めた米津が主として経営に当たっていた。二代目なので『金』にはドライだった。本島の長男の俊一が、「あいつ(米津)はケチ≠ナ計算高い」―と悪口を言っていたが、本島等は、「好きなようにやればいいさ」―と言っていた。
「末さんもいい女性を探して、心の休むところを作れよ」―とまで言った。
彼はいい奥さんを持っていたが、苦学した彼の心は、何か大きなロマンを求めていると思った。
市長になり、市長室の「ドア」を開けっ放しにした―市民出入り自由である。
本音を時に口にした失言家でもあった。
天皇の戦争責任発言も、原爆止むなしの発言も、半分は本音であり、「場所的には失言じゃないか」と―私が言うとニヤッと笑って、「末さん、夕方だから一時間飯食いに付き合えよ」―と言った。
「長崎の三景台に70坪(建坪)の家を作った。それをとやかく言われる」―と「コボ」していた。長崎市長公舎を新しく作って、歴史的建物の旧市長舎を記念館にした。
銃撃事件以後、警官がついていた(シークレットサービス)。「女のところに行けねえなあ―」と冗談もよく言った。
伊藤一長との選挙の前あたりから人生の焦りが見えた。甲状腺ガンがあったのだと後で判った。背中が段々猫背になった。私のパーティの最後に来てくれた時はかなり背が曲がっていた。
考え方に左傾化が見えて来たのもこの頃である。お互いに会う機会が段々減少した。
年に2回電話で話をする事があった。言語と会話に発展性がなくなった。「ボケか」と言うと怒って電話を切った―。それが最後になった。
本当に個性的な政治家だった。近日遺骨に会いに行く。
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